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旭川地方裁判所 平成5年(ヨ)79号 決定

債権者

甲野太郎

右代理人弁護士

八重樫和裕

債務者

株式会社損害保険リサーチ

右代表者代表取締役

伊賀定幸

右代理人弁護士

山本孝宏

山崎宏征

主文

一  債務者は、債権者に対し、平成六年四月一二日以降平成七年四月一一日に至るまで、毎月二五日限り月額一五万円の割合による金員を仮に支払え。

二  債権者のその余の申立てを却下する。

三  申立費用は、これを四分し、その一を債権者の負担とし、その余は債務者の負担とする。

事実及び理由

第一  申立ての趣旨

一  債権者が債務者に対し雇用契約上の権利を有する地位にあることを仮に定める。

二  債務者は、債権者に対し、平成五年九月一日から本案判決確定に至るまで、毎月二五日限り月額二〇万八九〇〇円の割合による金員を仮に支払え。

第二  事案の概要

本件は、昭和五六年三月ころ以降、債務者と雇用契約を締結した上、債務者が設置する旭川営業所ないしは旭川支社において、調査業務に従事していた債権者が、神経症を理由として約一年三か月余り休職した後、債務者に対して復職を申し出て、復職に関して債務者の総務部次長らと協議した際に、債務者に対し、債務者を退職し、新たに債務者と業務嘱託契約を締結する旨の意思表示をなしたが、これらの意思表示は、いずれも債務者から違法な配転命令を告知され、かつ、これに応じない場合には懲戒解雇である旨申し向けられたため、懲戒解雇されることを回避するためにやむなくなしたものであるから、錯誤により無効であり、また、強迫による瑕疵ある意思表示であって債権者はこれを取り消したなどと主張して、債務者との間の雇用契約上の諸権利及び雇用契約に基づく賃金債権を被保全権利として、民事保全法二三条二項に基づき、債務者との間の雇用契約上の権利を有する地位にあることを仮に定めるとともに、債権者が従前賃金として支払いを受けていた固定給相当額の仮払いを求めた事案である。

一  争いのない事実等

1  債務者は、損害保険に関する調査業務等を目的とする株式会社である。

また、債権者は、昭和五六年三月、債務者との間で雇用契約を締結し、以降、債務者の設置する旭川事務所(なお、平成四年四月一日からは組織変更により旭川支社となった。以下、債務者の旭川事務所と旭川支社のいずれについても「旭川支社」という。)において、調査業務に従事する社員として働いてきた。

なお、調査業務とは、損害保険会社等からの依頼を受け、交通事故の原因の調査や、保険金を請求するための書類の作成等の業務を内容とする。

2(一)  債権者は、右1記載のとおり、昭和五六年三月以降、旭川支社において、調査業務に従事してきたが、同支社内の人間関係の軋轢などを契機として神経症に罹患したため、平成四年三月一一日、債務者に対して病気療養を理由とする休暇届を提出し、同日以降同月三一日まで、有給休暇をとった。

同日以降、債権者は、旭川医科大学附属病院の精神科に通院を始め、平成五年三月末まで、カウンセリングと投薬を中心とする同病院の武井明医師の診察を受けた。なお、同医師の診断によれば、債権者の罹患している神経症の名称は抑うつ状態であった。その間、債権者は、平成四年五月一二日までは、債務者に対して病気療養を理由とする休暇届を提出して有給休暇をとり、同月一三日以降は、債務者に対して病気療養を理由とする欠勤届けを提出して欠勤を続けた。一方、債務者は、同年七月一三日以降、就業規則(乙一七、以下「就業規則」という。)に基づき、債務者を休職扱いとした。就業規則一五条によれば、業務外傷病により継続して三か月以上欠勤したとき等には休職とし、勤続三年以上の社員の休業期間は、勤続一年につき一か月で最高一年六か月とされ、就業規則二〇条によれば、右休業期間が満了した場合には退職するものとされている。

平成五年三月末に至り、右武井医師が転勤したため、債権者は、同年四月中旬以降、旭川市内の六条神経科の小野正宏医師(以下「小野医師」という。)によるカウンセリングと投薬を中心とする診察を受け始めた。なお、同医師の診断によれば、債権者の罹患している神経症の名称はうつ状態であった。その間も、債権者は、債務者に対し、前記同様、病気療養を理由とする欠勤届けを提出して欠勤を続けた。

(二)  平成五年五月ないし六月ころに至り、債権者は、自己の神経症の症状が軽快してきたとの認識のもとに、復職の可否について小野医師と相談したところ、同医師から復職が可能との見解が示されたことから、同年六月一四日、債務者に対し、同年七月一日から復職したい旨の付箋を付して、同年六月三〇日までの欠勤届けを提出し、更に、債務者の求めに応じ、債権者の病名をうつ状態とし、かつ、漸次軽快の傾向にあるので同年六月末までの休養加療の後は復職とする旨の見解の示された小野医師の診断書を添えて、債務者あてに同年七月一日から復職を希望する旨の復職願いを提出した。

なお、就業規則一七条によれば、休職扱いとなった者の休職事由が消滅した場合には、債務者は原則として原所属に復帰させ、復帰時において本人給及び資格の調整を行う、また、復職の認定は、採用基準に準じ債務者が行うこととされている。

(三)  平成五年七月七日、債務者の東京本社から大友栄治総務部次長(以下「大友次長」という。)が、旭川を訪れ、旭川支社の事務所がある建物の四階の会議室において、山本祐輔旭川支社長(以下「山本支社長」という。)同席の上、債権者と債権者の復職に関して協議した(以下「七月七日の協議」という。)。

(四)  同月一三日、山本支社長は、債権者の同意を得て、小野医師と面会し、債権者の復職の可否を判断する上で必要と考えられた事情を聴取したところ、同医師は、山本支社長に対し、以下の見解を伝えた。

(1) 債権者においては、症状が軽快の傾向にあることから、同月一日以降の復職は可能であり、休職前の程度の仕事はできると思われること。

(2) 症状再発の可能性については、全くない、あるいはないといった判断はできないが、職場環境が全面的に変わるところにまで至らなくとも、本人も覚悟をしていることから、それなりに仕事をこなすことができると思われること。

(3) 単身赴任を伴う転勤については、休職期間中、債権者を経済的、精神的に支えたのは、債権者の家族であり妻であるから酷であり、妻が仕事をしていることも考えると、辞めろというに等しいこと。

(4) 復職後も、債権者が治療の継続を希望しているので、治療を継続する方針であること。

(五)  山本支社長は、右同日、大友次長に対して、小野医師からの右聴取内容を電話で伝えた。

(六)  就業規則十四条には、債務者は、業務上の都合により、社員に対し、転勤を命じ、又は、職場の転換、職種の変更を命じることがあり、この場合、社員は、正当な理由がない限り、これを拒むことができない旨定められているところ、債務者は、同月二〇日ころ、債権者を復職させること及び復職に伴い債権者に対して発令する業務命令の案を、次のとおり内部的に決定した。

(1) 平成五年七月一日付で復職とする。

(2) 待遇については、初級調査職(三等級二八号)待遇とする。

(3) 同年八月末までは、体調、体力調整期間として、旭川支社において体調、体力にあわせて業務を遂行する。ただし、職種については未定とする。

(4) 同年九月一日付で東京地区に転勤して、業務を遂行する。

(5) 復職後に身体的障害その他により、業務遂行及び能力不足と会社が判断した場合は、復職の取消し又は解雇とすることがある。

(七)  同月三〇日、大友次長が再度旭川を訪れ、右同所において、山本支社長同席の上、債権者と債権者の復職に関して協議した(以下「七月三〇日の協議」という。)。

その際、大友支社長は、債権者の復職に関する債務者の決定として、少なくとも右(六)(1)、(3)ないし(5)記載の事項を告知した。

また、その際、債権者が住居を有する旭川市を離れることができないのであれば、同年八月末日限り債務者から退職して、同年九月一日以降、新たに債務者との間で業務嘱託契約を締結して、嘱託調査員として働くという方法があるということが話題になり、大友次長は、債権者に対し、債権者が希望するのであれば債務者で検討する旨話した。

債権者は、右協議の際、大友次長に対し、旭川支社で勤務を継続する希望を表明するなどしていたが、右協議が終了するころ、債権者は、大友次長に対し、様々な事情を考慮しても旭川市を離れることができない状況にあるため、平成五年八月末日をもって依願退職し、同年九月より旭川支社にて嘱託調査員として契約したい旨の債務者宛の書面(乙九)を作成の上提出した(以下、右書面に記載された債務者を退職する旨の意思表示及び同年九月以降嘱託調査員として契約したい旨の意思表示を「本件意思表示」という。)。

(八)  債務者は、同年八月二日ころ、本件意思表示を承諾することを決定し、その後、債権者は、同年八月三日に至り、山本支社長から、債務者が右(七)記載の書面に記載された本件意思表示を承諾したことを知らされ、債権者は、同支社長の指示をうけて、同日、同支社長に対し、改めて、同月三一日付で債務者を依願退職する旨記載された退職届けを提出した。また、同月四日、同支社長に対し、業務委嘱契約書に署名押印の上、これを提出し、債務者はそのころ、右契約の締結を承諾した。

更に、同月九日、山本支社長から、退職金等の支払いのために必要である旨の指示を受け、債務者宛に退職届けを提出した。

3  債権者は、債務者に対し、同年八月三一日、本件意思表示は、後記二、1、(三)、(1)記載と同一の理由により強迫によるものであるからこれを取り消す旨、また、後記二、1、(二)、(1)記載と同一の理由により無効である旨の意思表示をした。

4  債権者は、平成五年九月一日以降も債務者の社員であると考えて、同日午前一〇時ころ、旭川支社に出社したが、就労を拒否された。

右同日以降、債権者は、債務者から賃金の支払を一切受けていない。もっとも、同年八月ころ、債務者から退職金の支給を受けたが、債権者は、退職金を受領する理由がないと考え、間もなくこれを債務者に対して返還した。

5  なお、債権者が、債務者から支給を受けている給与のうち、本人給、職能給、職務手当及び家族手当(以下「固定給」という。)の合計額は、二〇万九〇〇〇円であり、給与の支給日は毎月二五日である。

二  主たる争点

1  被保全権利について

本件意思表示が無効であるか否かであるが、具体的には次の諸点である。

(一) 七月七日の協議及び七月三〇日の協議の場において、大友次長が、債権者に対し、債権者において東京地区への転勤を拒否し、復職後も旭川支社において継続して勤務することに固執する場合には、債務者は債権者を懲戒解雇することになり、退職金の支給をすることもできない旨発言したか否か。

(1) 債権者の主張

大友次長は、七月七日の協議において、債権者に対し、債権者が復職するに当たっては、別の会社への就職、東京への転勤、旭川支社において復職という三つの選択肢があり、旭川支社において復職するという選択肢を選択した場合には、懲戒解雇ということになる旨の発言し、また、七月三〇日の協議の場においては、債権者に対し、債権者において東京地区への転勤を拒否し、復職後も旭川支社において勤務することに固執する場合には、債務者は債権者を懲戒解雇することになり、退職金の支給をすることもできない旨発言した。

(2) 債務者の主張

債務者は、七月七日の協議の際には、未だ債権者の復職を認めるか否かについても結論を出していなかったのであり、大友次長は、債権者に対し、転勤についても検討するよう申し入れたことはあったものの、東京への転勤という話はしておらず、旭川支社における勤務を希望する場合には懲戒解雇ということになるという話もしていない。また、同次長は、七月三〇日の協議の際にも、前記一、2、(六)記載の事項を告知しただけで、旭川支社において勤務することに固執する場合には懲戒解雇になるという発言はしていない。

(二) 仮に、右(一)の事実が認められる場合に、本件意思表示が動機の錯誤により無効と認められるか否か。

この点に関する当事者双方の主張は以下のとおりである。

(1) 債権者の主張

イ 債権者は、七月七日の協議及び七月三〇日の協議の場において、大友次長から、右(一)記載のとおり、東京地区への転勤を拒否し、旭川支社で働くことに固執すれば、懲戒解雇することになる旨の大友次長の発言を受け、東京地区への転勤命令を承諾しなければ懲戒解雇されるものと誤信し、懲戒解雇を避けるために右意思表示をした。

ロ しかしながら、債務者が、債権者の復職に当たり、東京地区への転勤を命ずることは、以下の理由により違法である。

い 債権者が、債務者に入社する際、将来転勤することはないということが条件とされていた。

すなわち、債権者と債務者との間の雇用契約においては、債務者が債権者に対して転勤命令を発しないとの特約が付されていたのである。

右特約は、就業規則一四条の規定に優先するのであるから、就業規則の定めの如何にかかわらず、債務者が、債権者に対し、債権者の同意なくして東京への転勤を命ずることは許されない。

むしろ、就業規則一七条によれば、債務者は、債権者を復帰させるに際しては、原則どおり、原所属である旭川支社へ復帰させるべきであり、転勤を命ずることはできない。債権者を採用する際に成立した右特約を無視し、就業規則一四条を適用して東京への転勤を命ずることは違法である。

ろ 仮に、債権者の復職に際し、就業規則一四条により、債務者が債権者に対して東京地区への配転命令を発することができるとしても、転勤を命ずるための業務上の必要性と転勤による労働者の生活上の不利益とを比較考量すると、これは配転命令権の濫用である。

すなわち、業務上の必要性についてみるに、右必要性は認められない。まず、債権者の神経症の再発防止という点を考えるに、債権者は一年半余りも病院等で治療を受け、小野医師による復職可能との判断を経て復職願いを提出した。のみならず、小野医師は、再発の可能性の医学的判断として、債権者も従前の職場へ復帰して勤務する覚悟があるので見通しは明るい旨診断している。一般論としても、神経症の要因は職場環境のほか、生活環境や資質等も考えられ、単に職場を変えれば再発を防止し得ると考えるのは安直である。特に債権者の場合、長期療養を支えたのは家族であり、信頼関係のもとにカウンセリングを受けていた小野医師であった。東京への転勤は、これらの者との関係を打ち切ることになり、かえって神経症が再発する懸念を生じさせるものであり、その神経症の再発防止との理由には必要性も合理性もない。むしろ、債務者は、債権者の健康を考慮したというより、自らの責任逃れのために転勤を命じた疑いが強い。債権者は、旭川への復職後に再発したわけではないのであるから、原則とおり原職に復帰させ、カウンセリングを継続させた上で様子をみることが可能であった。また、債権者が運転免許を有していないとの理由については、債権者は一〇年以上、運転免許を有することなく業務を遂行してきたのであり、これによって支障を生じたことはない。その他、東京地区への転勤を命ずべき理由は何ら見当たらない。

他方、債権者の転勤に伴う不利益についてみるに、前記のとおり、債権者は転勤がないとの条件で入社したことに加え、債権者の妻は、旭川医大付属病院の看護婦として働いており、妻のほか子供三人の五人家族で、地元に定着して暮らしている。また、債権者の母親が肝硬変の疑いで治療が必要であり、更に、債権者の病気治療のため、小野医師によるカウンセリングを継続する必要がある。

このような事情からすると、東京地区への転勤は、家族との共同生活を破壊し、信頼関係を有する小野医師への継続治療を不可能にすることを意味し、また、経済的にも極めて逼迫する。

債権者は、このような事情を、七月三〇日の協議においても大友次長に対して説明し、東京地区への転勤には応じられない旨説明した。また、札幌市への転勤を打診するも拒否された。

更に、復職に際しての医師の見解は、前記一、(四)のとおりである。

ハ したがって、債権者は、債務者が提示した東京地区での勤務を命ずる配転命令案を拒否しても、何ら解雇事由に該当しないものであった。

にもかかわらず、債務者は、前記イ記載の大友次長の発言が有効であり、右配転命令案を拒否すれば懲戒解雇されると誤信して本件意思表示をなしたのであるから、その動機において錯誤があることは明らかである。

ニ 債権者が、東京地区への転勤を拒否し、旭川支社で働くことに固執すれば、懲戒解雇することになる旨の大友次長の発言を受け、本件意思表示をしていることに徴すれば、債権者は債務者に対してその動機を表示している。

債権者は、平成五年七月一三日及び一九日に、山本支社長を通して、転勤できない旨返答していたし、選択肢の一つとして旭川勤務に固執すれば解雇されるとの認識を示し、その上で本件意思表示をしているのであるから、債務者が右動機を知っていたことは明らかである。

(2) 債務者の主張

そもそも、平成五年七月七日の時点においては、債権者の復職を認めるか否かすら未だ定まっておらず、同月二〇日ころに至って、ようやく前記一、(六)記載のとおり、債権者の復職を認めた上、同年九月一日以降は東京地区で勤務することなどを、将来の成立すべき業務命令の案として、債務者の内部で決定していたに過ぎない。そこで、大友次長は、右業務命令案に対する債権者の意見を聴取するために、同月三〇日、旭川市に行って、七月三〇日の協議をしたのである。ところが、債権者は、大友次長が重ねて右業務命令案に対する債権者の意見を聴取しようと努力したにもかかわらず、これに対する明確な意見表明をしないうちに、本件意思表示をなしたものである。したがって、債権者は、自発的に乙九号証を作成し、任意に本件意思表示をなしたことは明らかである。

また、債権者と債務者との間の雇用契約には、債務者が債権者に対し転勤命令を発しないとの特約などはなく、むしろ、就業規則一四条において、債務者が、債権者に対して、転勤命令を発し得ることが明示されている。右条項により、債務者は、債権者に対して、転勤命令を発する広汎な権限を有しているのであり、債務者は、右条項に基づき、東京地区への転勤を命ずる業務命令の案を作成した。債務者が、債権者を東京地区において勤務させるとの業務命令案を作成した業務上の必要性としては、債権者については、過去に虚偽の報告書を作成したことなどにより、数社の取引先ないしは取引先の担当者から、債務者に対し、債権者に調査案件を回付しないよう要請があり、債務者としてはこれに応じざるを得ないことから、債権者が担当し得べき仕事の分量が限定され、その結果、債権者の給料が低くなるとともに、債務者の売上実績にも影響が生じること、債権者が休職を始めた当時と復職当時とでは、旭川支社の構成員に変更はなく、債権者を旭川支社において継続して勤務させると、債権者の神経症の原因となった社内の人間関係の軋轢が、業務の執行上障害となり得るばかりか、再度神経症を悪化させるおそれがあったこと等、また、転勤先が東京地区に決まった理由としては、債権者は運転免許を有していないが、東京地区であれば、交通機関が発達しているため、旭川支社において勤務する以上に売上を伸ばすことが可能であること及び職種の選択の余地が広いこと等を理由とする。

よって、本件意思表示の動機に錯誤があるとの主張は理由がない。

(三) 強迫を理由とする取消し

仮に、前記(一)の事実が認められる場合に、本件意思表示が、債務者又は大友次長の強迫によりなされたものと認められるか否か。

この点に関する当事者の主張は以下のとおりである。

(1) 債権者の主張

イ 債権者は、七月七日の協議及び七月三〇日の協議の場において、大友次長から、右(一)記載のとおり、東京地区への転勤を拒否し、旭川支社で働くことに固執すれば、懲戒解雇することになる旨の告知を受け、東京地区への転勤命令を承諾しなければ懲戒解雇されるものと畏怖し、懲戒解雇を避けるために右意思表示をした。

ロ しかしながら、前記(二)、(1)、ロで主張したとおり、七月七日の協議及び七月三〇日の協議において、債務者が、債権者の復職に当たり、債権者に対し、平成五年九月一日以降は東京地区で勤務するとの転勤命令案を提示したことは、配転命令権の濫用であり、これに応じなければ懲戒解雇になるとの右イ記載の大友次長の発言は、債権者に対する違法な強迫行為に該当する。

債務者の意図如何にかかわらず、東京への転勤そのものが債権者の私生活上及び治療上、重大な影響を及ぼすものである上、これを拒否すると懲戒解雇である旨の告知は、明白かつ直接に債権者の一身上の地位にかかわる害悪の告知である。

(2) 債務者の主張

本件意思表示が、債権者の任意によりなされたものとしか考えられないこと、また、平成五年七月二〇日ころに内部的に決定された債権者を同年九月一日以降東京地区において勤務させるとの業務命令案には何らの違法性もないことは、前記(二)、(2)で主張したとおりであり、債権者のこの点の主張も理由がない。

(四) 仮に前記(一)の事実が認められる場合、大友次長が、七月七日の協議及び七月三〇日の協議において、債権者に対し、平成五年九月一日以降東京において勤務するとの業務命令の案を提示し、これを拒否して旭川支社において勤務することに固執する場合には懲戒解雇になると告知したことが、その実質において解雇ということができるか。

これが仮に認められる場合、債権者において解雇事由があったと認められるか否か。

(五) 本件意思表示に、平成五年九月一日を停止期限とする旨の付款が付されていたものと認めることができるか否か。

2  保全の必要性について

本件申立てについて、保全の必要性が存するか否か。

また、仮に存する場合には、その程度の如何。

第三  争点に対する判断

一  争点1(一)について

1  この点の双方の主張は、前記第二、二、1、(一)に記載したとおりであり、甲一〇、一五、二〇号証には債権者の主張に、乙一三ないし一五号証中には債務者の主張に、それぞれ添う記載部分が存するところ、本件疎明資料及び審尋の全趣旨によれば、以下の事実を一応認めることできる。

(一) 大友次長は、七月三〇日の協議の場において、債権者から、七月七日の協議の際の大友次長の発言について、「選択が幾つかあって、全く新しい会社に移るか、旭川を選ぶか、それと東京方面への配属を希望するか、この三つの選択肢だということだったんですけど、旭川を選ぶということは、いわゆる解雇だということで、実質的には東京への内示に近いように伺ったのですけれど。」という質問に対し、「うん、うん、この間のね。」と返答した(甲一一、二三、乙二三)。

(二) また、大友次長は、債権者が、募集段階から現地採用であって転勤はないという条件によって入社しているが、就業規則の規定はどう定められているのかと質問したのに対し、就業規則一四条を朗読し、これは全社員に適用されるものである旨述べた上、「私も大阪で調査職で入っているわけ。そのときは甲野さんと同じように、いわゆるここから転勤はないよと、まあ、転勤はないよというようなことで勤めてもらうよとね。それで転勤はないよというようなことを言われているわけですよ、私らも。だけども、会社でこういうふうにして下さいよ、というふうになれば、それを拒むということは、じゃ会社にいられないということでしょ。おられないということでしょ。」と発言した(甲一一、二三、乙二三)。

(三) 債権者は、山本支社長に対し、平成五年七月一三日、債務者に復職するに当たり、「最悪のことも考えましたが。」と発言し、また、同月一九日、転勤先について、「東京ではなく、東北とか近くがよい。」という趣旨の申入れをした(乙一三、審尋の全趣旨)。

(四) 債権者は、平成五年七月ころ、旭川労働基準監督署に電話をし、また、同年八月二四日、同労働基準監督署を訪れて、要旨、「平成四年一年間、精神的な病気により会社を休職した。復職に際し、会社側に職場環境の改善を申し入れたところ、会社側は、調整期間を設けたい、東京本社への転勤、解雇もあり得るとの条件を付してきた。採用時の面接においては「転勤はない。」との説明を受けていたが、東京本社への転勤命令は約束違反とならないか。」という趣旨の相談をした(甲一七)。

2(一)  以上の各疎明事実を総合すれば、まず、七月七日の協議においては、大友次長は、債権者に対し、東京地区への転勤を打診したことはもとより、債権者の復職に関しては、債務者を退職した上で別の会社に就職するか、東京地区へ転勤するか、旭川支社で勤務を継続するかの三つの選択肢があり、旭川支社で勤務を継続するとの選択肢を選択した場合には懲戒解雇もあり得るという趣旨の発言をしたことが一応認められるというべきであり、右認定に添う甲一〇号証等前記の各疎明資料はこれを信用することができる。右疎明事実に反する内容が記載された乙一三ないし一五号証は、右疎明事実及び掲記の各疎明資料に照らし、これを信用することはできない。

大友次長は、総務部には、社員の勤務場所の変更に関しては、何らの権限もない旨供述するが(審尋の全趣旨)、仮にこれが事実であったとしても、何ら右判断を左右するものではない。

また、七月七日の協議の時点においては、債務者は未だ債権者の復職を認めるか否か自体についての結論を出していなかった(争いのない事実)のであるから、債権者が復職することが決定し、かつ、特定の勤務地への転勤命令が発令されることを前提とする業務命令違反の場合の懲戒解雇に関する話がなされたことはいささか唐突の感を免れないが、債務者は、右協議において、大友次長が転勤先の具体的地名を明示したことは否定するものの、同次長において転勤自体については債権者に対して検討するように申し入れたことは認めているほか、総務部は、債権者に対して検討するように申し入れたことは認めているほか、総務部は、債務者において社員の復職の可否の決定するに当たり意見を具申する立場にあり、債務者の総務部が所管する事務については、同部において決定された原案のほとんどは、債務者の役員会でもそのまま決定されている(審尋の全趣旨)ことに照らすと、転勤場所の決定自体に関与する権限が仮になかったとしても、あながち不自然とまではいえず、何ら右判断を左右するものではない。

(二)  右(一)記載の疎明事実によれば、未だ債務者による内部決定を経ない段階で行われた七月七日の協議に比べて、前記第二、一、2、(六)記載のとおり、債務者の復職を認めるとともに、平成五年九月一日以降は東京地区において勤務させるという、大友次長による七月七日の協議の際の発言内容に添った内容の業務命令案が、債権者に対して提示されるべきものとして債務者内部で決定された後の段階である七月三〇日の協議において、右会社の内部的決定事項を告知され、なお、旭川支社において勤務を継続する希望を表明している債権者に対し、七月七日の協議の際の発言から更に進んで、旭川支社において勤務を継続することを希望する場合には懲戒解雇となり、退職金も支給できない旨の大友次長の発言があったという甲一〇号証の記載は自然であり、前記1、(二)記載の疎明事実をも総合すると、これを信用することができるというべきである。右のような発言をしたことはない旨の乙一三及び一四号証は、七月七日の協議に関する記述部分において信用し得ない上、右甲一〇号証の記載内容に照らして信用することはできない。

二  争点1、(二)及び(三)について

1  まず、債務者が、債権者に対し、平成元年九月一日以降東京地区において勤務するとの業務命令の案を告知したことが、雇用契約違反ないしは配転命令権の濫用といい得るか否かについて検討する。

(一) 初めに、債権者と債務者との間の雇用契約において、債務者は、債権者に対し、旭川支社以外の勤務場所への転勤命令を発しない旨の特約が存在すると認められるか否かについて検討するに、この点、前記1、(二)及び(四)で疎明された事実に、甲一〇号証、二〇号証、乙二三号証及び審尋の全趣旨を総合すれば、債権者が、債務者に入社する以前の段階で開催された入社説明会及び採用試験手続の一環としての面接の時点において、調査業務に従事する社員には転勤はない旨の情報が提供されたことを一応認め得るかにみえる。しかしながら、右入社説明会及び債権者に対する面接を担当した中村治夫及び山本支社長や、入社説明会や面接に出席した債権者の同僚は、いずれもこのような情報を提供したことを否定している上(乙二八、二九、審尋の全趣旨)、前記第二、一、2、(六)のとおり、就業規則一四条には、債務者は業務上の都合により社員に対して転勤を命ずることがある旨の規定が存在していることに照らし、債権者と債務者との間の雇用契約上の特約として、右特約が存在していることを疎明するに足りる証拠はない。

よって、この点の債権者の主張は理由がない。

(二) 次に、前記業務命令の案の内容が、そのまま業務命令として発令された場合に、債務者の転勤命令権の濫用といい得るか否かについて検討する。

(1)  ところで、債務者は、就業規則一四条に基づき、業務上の必要に応じ、その裁量により労働者の勤務場所を決定することができるものというべきであるが、転勤、特に転居を伴う転勤は、一般に、労働者の生活関係に少なからぬ影響を与えずにはおかないから、使用者の転勤命令権は無制約にこれを行使することができるものではなく、これを濫用することの許されないことはいうまでもないところ、当該転勤命令につき業務上の必要性が存しない場合又は業務上の必要性が存する場合であっても、当該転勤命令が他の不当な動機・目的をもってなされたものであるとき若しくは労働者に対し通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせる場合であるとき等、特段の事情の存する場合でない限りは、当該転勤命令は権利の濫用になるものではないというべきであり、右の業務上の必要性についても、当該転勤先への異動が余人をもって容易に替え難いといった高度の必要性に限定することは相当ではなく、労働力の適正配置、業務の能率増進、労働者の能力開発、勤労意欲の高揚、業務運営の円滑化など企業の合理的運営に寄与する点が認められる限りは、業務上の必要性の存在を肯定することができるというべきである(最高裁昭和五九年(オ)第一三一八号昭和六一年七月一四日第二小法廷判決・判時一一九八号一四九頁)。

(2) 本件疎明資料及び審尋の結果によれば、次の事実が一応認められる。

イ 債権者は、平成三年一一月ころ、業務に関して債務者の指示に従わず、また、過失・怠慢によって顧客に迷惑あるいは損害を与えたとして、債務者からけん責、出勤停止及び降格を内容とする懲戒処分を受けた。

また、それ以外にも、債権者に対しては、平成元年四月ころから債権者が休職を始めた平成四年三月ころまでに行った調査業務について、順次取引先からの抗議が相当数寄せられたことから、債務者は債権者から始末書を徴収するなどする一方、旭川支社の取引先のうち、二社の取引先についてその担当者の全員から、また、二社の取引先についてその担当者の一部から、債権者に対しては仕事を回付しないで欲しい旨の要請があり、債務者としてはこれに応じざるを得なかった。

その後、右要請のうち一部が撤回されるなどしたが、債権者が休職を始めた平成四年三月以降も、休職前の債権者が行った調査業務に関して数社の取引先から抗議が新たに寄せられ、平成四年七月ころ現在において、三社の取引先について担当者全員から、また、四社の取引先について担当者の一部から、それぞれ債権者に対して仕事を回付しないて欲しい旨の要請が寄せられており、債務者としては、これに応じざるを得ないため、債権者が復職後、旭川支社において勤務を継続した場合でも、担当し得る仕事の範囲は一定程度限定されることとなった。

(乙二四の1ないし4、二五、二六、三六、審尋の全趣旨)

ロ すなわち、債務者においては、調査員の業績を点数に換算して計算する方式が採用されているところ、債権者が上げた点数は、平成三年四月ないし平成四年二月までの一一か月間でみると、通算で6695.5点であり、一か月の平均の点数は約六〇九点であった。しかしながら、債権者が休職を始める直前ないし休職を始めた平成四年三月以降、担当者の全員から債権者に対して仕事を回付しないように要請のあった三社の取引先から上げていた点数を控除すると、3784.5点となり、一か月の平均で約三四四点となる。また、債権者の休職の前後を問わず、担当者の一部から同様の要請があった取引先四社から債権者が上げていた点数をも控除すると、通算点数が2570.5点となり、一か月の平均で約二三四点となる。

なお、債務者の給与規程(乙一八の1・2、以下「給与規程」という。)二〇条によれば、債務者の社員のうち、調査業務に従事する社員については、業績を換算した点数が一か月当たり三六〇点以下の場合には、能率給が支給されず、また、右点数が一か月当たり二七二点未満の場合には、三六〇点から当該一か月当たりの換算された点数を控除した残りの点数を、翌月の換算点数から控除し、もって、当該翌月の業績を換算した点数とすることとされている。

(乙一八の1・2、二五ないし二七、三六、審尋の全趣旨)

ハ 小野医師は、債権者が神経症に罹患した原因として、職場内の人間関係の不和を挙げていた。

また、右の人間関係の不和は、現在も解消されていない。

(甲一〇、二二、乙三二ないし三四、審尋の全趣旨)

ニ 債務者は、債権者が運転免許を有していないところ、債権者が東京地区で勤務した場合には、同地区は交通機関が発達していることから、現在以上の業績を獲得することができ、また、東京地区であれば、債権者が担当可能な職種の範囲が広いと考えて、債権者を東京地区において勤務させるとの業務命令案を決定した。

(3) 他方、本件疎明資料及び審尋の全趣旨によれば、以下の事実を一応認めることができる。

イ  債権者は、妻花子、長男一郎(平成五年七月当時一〇歳)、長女夏子(同六歳)及び二男二郎(同四歳)の五名で、住所地に居住している。また、妻花子は、旭川医科大学附属病院において、看護婦として働いている。

このような家庭状況であるため、債権者は、現在に至るまで、家庭内での家事等については妻と分担していたが、債権者が東京地区へ転勤する場合には、いわゆる単身赴任となるほか、家事等については、妻がそのほとんどを行うことになる。

(甲四、五、一九、審尋の全趣旨)

ロ  債権者は、前記のとおり、平成四年三月一一日以降、神経症の治療のため、旭川医科大学附属病院の武井医師のカウンセリングを受ける等していたが、同医師は、平成四年七月ないし八月ころ、債権者について、抑うつ状態のため約一か月間の自宅療養及び通院を要し、約三か月間治療を受ければ復職も可能であるとの診断をした。ところが、右治療を受けている間、債権者が同医師と復職の相談をしたところ、その後も、同医師において債権者が復職可能と判断し得る程度に回復するには至らなかった。

しかるに、前記のとおり、債権者が、平成五年四月以降、小野医師によるカウンセリング等の治療を受けるようになったところ、同医師においては、同年四月ないし五月ころ、うつ状態のため、約一か月の休養加療を要するとの判断をし、その後、同年六月ころになり、同医師から復職可能との判断を得られる程度に、債権者の神経症の症状は軽快した。

(甲一〇、乙四の1ないし4、六、審尋の全趣旨)

ハ  なお、復職に際しての小野医師の見解は、前記第二、一、2、(四)記載のとおりである。

ニ  債務者は、全国に支社や営業所を有する会社であり、全国で約三〇〇名の者が調査業務に従事しているところ、これらの者の中で、昭和六一年一一月以降現在に至るまで、勤務場所が変更された者は三名であった。また、旭川支社においては、その設立当時から最近に至るまで、債権者を含めて約四名程度の社員が調査業務に従事していたが、これらの者の中で、平成五年七月ころに至るまで、旭川支社以外の勤務場所に転勤した者はいなかった。なお、債務者は、平成三年ころに、調査業務に従事する社員であっても、転勤を今まで以上に行うという方針を示している。

他方、債務者の社員全体の中で、現在に至るまで、疾病等による休職後、債務者に対して復職を申し出た者は六名程度いたが、うち、勤務場所の変更を前提に復職が決定された者は、営業所長の地位にあった一名のみであった。

(審尋の全趣旨)

(4) 以上の事実を前提に判断する。

イ 前記(2)記載の各疎明事実によれば、まず、債務者において、債権者を、その復職後、旭川支社以外の勤務場所において勤務させる業務上の必要性が存することは明らかである。特に、前記(2)、イ及びロ記載の疎明事実と前記第二、一、2、(四)記載のとおり、小野医師が、債権者は、復職後、休職前の同程度の仕事を遂行することができると判断していることを考慮すれば、債権者において、復職後、旭川支社において継続して勤務した場合には、月平均約三四四点程度の業績を上げ得ると予想することには一応の合理性が認められ、他方、給与規程によれば、債務者は、社員の業績を換算した点数が、月に三六〇点以下しかない場合には能率給を支給しないこととしていることに照らすと、右点数以下にとどまる業績は、債務者が調査業務に従事する社員に対して期待する程度の業績に至らないものと解される。したがって、債権者については、債務者が期待する程度の業績を上げることができないことが一応合理的に予測され、債権者を、復職後、旭川支社以外の場所において勤務させることには、十分な業務上の必要性が存するというべきである。

また、勤務場所として、東京地区が選定されたことについても、前記(2)、イ、ロ及びニ記載の各疎明事実によれば、社員の労働能力の有効利用という観点からみて、業務上の必要性はこれを肯定することができるといわなければならない。

ロ  しかしながら、前記(3)記載の各疎明事実を合わせ考えると、債務者が、債権者に対して東京地区において勤務させることは、労働者が通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるものと認めざるを得ない。

すなわち、前記第二、一、2、(四)のとおり、債権者は、復職後も継続的に小野医師の治療を受けることを予定しているのであって、本件全疎明資料及び審尋の結果によっても、右治療の継続が社会通念上不必要であることをうかがわせる事情は何らこれを見い出し難い。他方、前記(3)、ロ記載の疎明事実及び審尋の全趣旨によれば、神経症の治療が効果を上げるためには、患者と医師との相性が重要であり、債権者は、小野医師とのこのような相性に基づく信頼関係を基礎とした治療により、復職可能な程度に神経症が軽快したものと一応認めることができる。したがって、債権者が、復職後も旭川支社で勤務を継続した場合には、同医師の治療・援助を受けながら、職務を遂行することが期待できるのに対し、東京地区において勤務をする場合には、信頼関係を構築してきた同医師による治療の機会を完全に喪失させてしまうこととなる。

また、前記第二、一、2、(四)のとおり、小野医師は、債権者の復職に際し、休職期間中、債権者を精神的、経済的に支えたのは家族であり、東京地区への単身赴任は債権者に酷であり、債権者の妻の仕事のことも考えると、単身赴任は会社を辞めろというに等しい旨の見解を表明しているところ、右後段部分はともかく、右前段部分についての右見解は、医学的見地からの判断を含むものと一応認めることができる。したがって、債権者を東京地区へ勤務させ、その結果、債権者と家族の者との交流が疎遠になることは、通常の健康状態にある労働者が単身赴任する場合に比べて、債権者の健康上、より大きな不都合が生ずるものと解される。

もっとも、右に挙げた各事情は、債権者が新たに勤務すべきこととされる場所如何によっては、相当程度これを軽減することができると解する余地はある。しかしながら、債務者において、債権者を復職させる際に、勤務場所を決定する業務命令案を策定するに当たり、債務者の札幌支社における勤務の可否等、右に挙げた各事情を回避するために、東京地区以外の勤務場所が検討されたか否か、仮に検討されたとして、どのような理由により東京地区が勤務場所として決定されたのかについては、本件全疎明資料及び審尋の結果によっても明らかではなく、むしろ、債務者としては、等しく単身赴任をするのであれば、勤務場所が東京地区とされてもそれ以外の場所とされても、大差はないとの認識を有していたことがうかがわれること(乙一四、審尋の全趣旨)に徴すれば、債務者が、債権者の復職に際しての債権者に提示すべき業務命令案の内容として、勤務場所を決定するに当たり、債権者に生ずる右に挙げた不都合は考慮されていないものというべきである。

更に、前記(3)、ニ記載の疎明事実のとおり、現在に至るまで債務者の社員のうち、調査職に従事していた者や休職後復職を申し出た者の中で、転勤を命ぜられた者の数は相当少ないといわざるを得ないのみならず、債務者は、社員に対して転勤命令を発するに先立ち、当該社員に対して、あらかじめ社員の意見を聴取する手続を採っているが、現在に至るまで、右意見聴取手続の中で転勤拒否の意思を表明した社員に対しては、その理由の合理性の程度の多寡を問わず、右意思に反して、転勤命令を発したことは一度もなかった(審尋の全趣旨)のであるから、少数ながら右の転勤を命ぜられた者は、いずれも転勤に同意していたものと一応認められる。

以上の事情を総合すれば、債権者の復職に際し債権者に対して提示された、債権者を東京地区において勤務させることを内容とする業務命令案は、これが債権者の意思に反して業務命令として発令された場合には、債権者において通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるものといわざるを得ない。

ハ もっとも、前記イのとおり、債権者を旭川支社以外の勤務場所に転勤させることについては、十分な業務上の必要性が存すると解される。

しかしながら、前記(2)、ロ記載の疎明事実のとおり、給与規程によれば、調査職に従事する債務者の社員のうち、一か月間の業績を換算した点数が三六〇点以下の者については、能率給が支給されない反面、右点数が二七二点以上の者については、当該社員が翌月に上げた業績を換算した点数は、何らの控除もなされることなく、そのまま能率給の支給基準とされるのであるから、右点数が二七二点以上三六〇点以下の者については、債務者が期待する程度の業績を上げたとまではいえないものの、債務者において、社員に対する給与を減額すべき程度に劣悪な業績であるとまでは判断していないものと解される。本件においては、前記イで説示したとおり、債権者が、復職後、旭川支社において勤務を継続した場合には、一か月平均約三四四点の点数に相当する業績を上げると予測することには合理性は認められるものの、調査業務に従事する社員が、一か月にどの程度の業績を上げるかは、上司が当該社員にどの程度の仕事を回付するかという事情にもよることが一応認められるから(甲二〇、審尋の全趣旨)、債権者の復職後の業績は、旭川支社長が、債権者に対して回付する仕事の量によってある程度調整することは可能と解されるし、また、債権者に対する仕事の回付量が、休職前と同程度であるとの前提をとっても、乙二七によれば、債権者は、休職前の段階において、担当者の一部から債権者に対して仕事を回さないように要請されていた取引先からも、一定程度の点数を上げていることがうかがわれることに照らすと、右のような取引先から全く点数を上げられないとは認められないのであって、債権者が、復職後、旭川支社において継続的に勤務した場合、点数に換算して一か月二七二点未満の業績しか上げられない、すなわち、債務者において、債権者に対する給与を減額すべき程度の劣悪な業績しか上げられない見込みがあるとの疎明はないといわざるを得ない。

また、復職後旭川支社において継続的に勤務した場合の債権者の神経症の再発のおそれについても、前記(2)、ハのとおり、休職前に生じていた旭川支社内での人間関係の不和がなお残っているとしても、前記第二、一、2、(四)のとおり、小野医師は、職場環境が全面的に変わらなくとも、債権者自身、復職に当たって相当の覚悟をしているので、再発の心配はさほどない旨の見解を表明しているのに対し、債務者においては、職場環境はほとんど変わっていないから、債権者の覚悟がなくなれば、神経症が再発するとの趣旨に理解していることがうかがわれ(甲一一、乙一四、二三、審尋の全趣旨)、小野医師の右見解を正当に評価しているか疑問が残る上、ひるがえって、前記第二、一、2、(八)記載の業務委託契約は、債権者が旭川支社において業務を行うことを前提としていたこと(争いのない事実)に照らし、債務者において、さほど重視していたものとは解されない。

更に、右各事情はいずれも、仮に、債権者を旭川支社以外のいずれかの勤務場所において勤務させることを決定する上で、考慮すべき事情として斟酌される場合には格別、債権者を東京地区において勤務させることを決定する上で、何らかの積極的意義を有することの疎明はない。

したがって、いずれにせよ前記ロ記載の判断を何ら左右するものではない。

(5)  以上のとおり、本件においては、少なくとも七月三〇日の協議において、債務者が大友次長を介して債権者に対して提示した、平成五年九月一日付で債権者を東京地区において勤務させるとの業務命令案は、これが、旭川支社において継続して勤務することを希望していた債権者の意思に反し、業務命令として発せられた場合には、債権者に対して通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるものとして、配転命令権の濫用になると解するのが相当である。

2  そこで、前記一、2のとおり、大友次長が、七月七日の協議及び七月三〇日の協議の際、債権者に対し、旭川支社において勤務することを希望する場合には懲戒解雇もあり得る、ないしは懲戒解雇となるなどと発言したことが、債権者が七月三〇日の協議の際に本件意思表示をするに先立つ強迫行為であったといえるか否かについて検討する。

(1)  まず、前記2のとおり、七月三〇日の協議の際に、債務者が大友次長を介して債権者に対して告知した平成五年九月一日付で債権者を東京地区において勤務させるとの業務命令案は、そのまま業務命令として発令された場合には、債権者が旭川支社において継続して勤務することを希望していた以上、配転命令権の濫用となると解すべきことに加え、同日の協議の際には、債権者に対して提示された業務命令案は、未だ業務命令として最終的に確定したものではなく、債権者の事情次第では未だ変更の余地があったこと(審尋の全趣旨)、また、前記(2)、ニ、ろのとおり、債務者は、社員に対して転勤命令を発するに先立って行う当該社員の意見聴取手続の中で、当該社員が転勤拒否の意思を表明した場合には、その理由の合理性の程度の多寡を問わず、右意思に反して、転勤命令を発したことは一度もなかったことに照らすと、前記一、2、(二)のとおり、七月三〇日の協議において、大友次長が、債権者に対し、旭川支社における勤務の継続に固執する場合には懲戒解雇となる旨発言したことは、右発言が債務者の意思に添うと否とを問わず、また、大友次長において右発言をする権限を有していたと否とを問わず、違法といわざるを得ない。また、七月七日の協議の際に、大友次長が、前記一、2、(一)のとおり、三つの選択肢の中で、旭川支社で勤務を継続するとの選択肢を選択した場合には懲戒解雇もあり得るという趣旨の発言をしたこともまた、右と同様の理由により違法であるといわざるを得ない。

(2)  また、七月七日の協議及び七月三〇日の協議の際の大友次長による右発言内容は、発言の内容自体として、東京地区への転勤を承諾しなければ懲戒解雇になり得る、あるいは、懲戒解雇になるという、債権者の生活上に重大な不利益を及ぼす事柄の告知である上、七月三〇日の協議の際には、大友次長がかなり語気荒く債権者に対して話しかける場面が存したこと(甲一一、乙二三)、同日の協議において、大友次長が、同日四時の飛行機で東京に戻るので、債務者が同日に提示した事項等につきイエスかノーかで答えるように促し、いくつかの質問をしたにもかかわらず、債権者からは何の返答もないという状況下で、最終的に大友次長から渡された便箋に本件意思表示を記載したこと(争いのない事実、甲一〇、乙一四)を総合すれば、七月七日の協議及び七月三〇日の協議の際の大友次長による右発言は強迫行為に該当し、債権者は右発言に基づき、懲戒解雇されることを避けるため、本件意思表示をなしたものと一応認めることができる。

(3) 更に、七月三〇日の協議においては、前記第二、一、2、(七)のとおり、債権者において、債務者を退職して業務嘱託契約を締結するという解決方法が話題に上がり、大友次長は、右協議以前の段階で、山本支社長から、債権者において右のような解決方法の希望を有することを知っていた(乙一四)のであるから、大友次長が、右協議において前記一、2、(二)記載の発言をした際には、大友次長において、右発言により、債権者が本件意思表示をするとの認識をも有していたものと一応認めることができる。

3 したがって、債権者がなした本件意思表示は、強迫によるものといわざるを得ないのであって、前記第二、一、3記載の取消しの意思表示により、債務者との関係においても無効というべきである。

4  よって、右判断と前記第二、一記載の各疎明事実を総合すれば、その余の点について判断するまでもなく、債権者は、債務者に対し、雇用契約に基づく諸権利を有するとともに、平成五年九月一日以降の賃金債権を有しているものと一応認めることができる。

なお、債権者が債務者に対して有する一か月の賃金債権の額については、前記第二、一、5のとおり、債権者が、債務者から、支給を受けている給与のうち、固定給の合計額が、二〇万九〇〇〇円であることは、前記第二、一、5のとおりである。

しかしながら、債権者は、休職前の平成三年九月から平成四年二月までの六か月間に、合計一二日間、有給休暇をとり、又は、欠勤していた(乙三一の1ないし6、三五)から、債権者は、復職した後旭川支社において勤務するとしても、少なくとも一か月当たり二日は勤務を休むものと一応認められる。他方、本件疎明資料及び審尋の結果によれば、債務者の社員が、病気等により欠勤した場合には、給与規程により、欠勤した日数一日につき、固定給から、固定給に所定労働日数分の一を乗じた額に相当する金額(ただし、一〇円未満は切捨て)を控除した金額を支給することとされていること(乙一八の1)、右所定労働日数は、毎月一日から末日までの暦日数から日祝日及び年末年始(一二月三一日から一月四日まで)を控除した日数とされていること(乙一七、一八の1)、債権者は、休職開始後二か月間は、有給休暇をとって休職していたことから、仮に平成五年七月に復職したとしても、平成六年三月三一日までは有給休暇をとることができず、その間においては勤務を休む場合は欠勤となること(審尋の全趣旨)、がそれぞれ一応認められるから、前記固定給の合計額から、右の基準により、一か月当たり二日欠勤するものとして減額すべき金額を控除した額をもって、平成五年九月一日以降の一か月の賃金額と解するのが相当である。なお、平成五年四月以降の一年間の中で、控除額が最も大きいのは、右所定労働日数が二二日となる一月であり、控除額は一万八九八〇円となり、控除額が最も少ないのは、右所定労働日数が二七日となる八月であり、控除額は一万五四六〇円となる。

三  争点2について

ところで、本件申立ては、いずれも民事保全法二三条二項に基づく仮の地位を定める仮処分である。

1  したがって、本件申立てのうち、まず、賃金相当額の仮払いの申立てについてみれば、債権者において、著しい損害又は急迫の危険を避けるために必要な場合に、必要な限度でのみ仮払金の支払いを認めるべきところ、債権者は、平成五年九月一日以降、早くとも平成六年四月一一日までは、協同インシュアランスサービス株式会社から嘱託された業務を遂行して得た収入や、従前の預金を取り崩すなどして、生計を維持してきたものと一応認められる(甲二二、審尋の全趣旨)から、右期間については、申立てにかかる仮払金の全部又は一部の支払いを受けることが、著しい損害又は急迫の危険を避けるために必要であるとは認め難い。

他方、平成六年四月一二日以降の期間については、債権者の家計においては、一か月当たり、住宅ローン等の支払いに四六万〇六九三円を要するほか、食費が必要であるのに対し、妻の収入が一か月当たり二二万円ないし二三万円であることが一応認められるから、申立てにかかる仮払金額全額、すなわち固定給の合計額全額について、その支払いを受けることが、著しい損害又は急迫の危険を避けるために必要と認められるかにみえる。

しかしながら、賃金相当額の金銭の仮払いを求める仮処分において請求される仮払金の支払いは、雇用契約に基づく給料自体の支払いではないものの、債権者に対して本案以上の満足を与えることは許容されないから、被保全債権たる賃金額がその上限となると解すべきところ、本件においては、前記二、4記載のとおり、被保全債権である賃金債権は、二〇万八九〇〇円の固定給から、一か月当たり一日欠勤するものとして、一万八九八〇円ないしは一万五四六〇円の所定の控除をした金額がその上限となる。また、債権者は、平成六年六月ころまでは、月額一六万円程度の雇用保険の給付を受けることができる見込みであること(審尋の結果)、債権者は、同年四月一一日現在において、三八四万九七一五円の財形預金を有していること(争いのない事実)を総合すると、本件申立てにかかる仮払金は、一か月一五万円の割合で支払いを求める限度においてのみ、必要性を認めるのが相当である。

更に、債権者が罹患していた神経症は、債務者への復職が可能な程度に回復しており、現在においては、債権者において、他所において勤務することにより、生計の資を得ることも可能な状態であること(審尋の全趣旨)に鑑みると、本件仮払金の支払申立ては、現時点においては、平成六年四月一二日以降、一年間に限り、その必要性が存すると認めるのが相当である。

2  次に、本件申立てのうち、雇用契約上の地位を仮に定めることを申し立てる点については、一定の金額の仮払いを受けることができるとの一事をもって、直ちに右申立ての必要性が存しないとまではいうことはできないが、他方、本件においては、右申立てが、債権者において、雇用契約上の中核たる賃金債権以外のいかなる権利について、いかなる著しい損害ないし急迫の危険を避けるために必要であるかの点については明確な主張はなされておらず、右必要性を認めるに足りる疎明もない。

債権者は、債権者において、旭川支社に復職することを希望しており、復職できないことにより苦痛を被っているとの趣旨の主張をしているものと善解できないではないが、仮に、右のように善解するとしても、なお、右申立ての点について、保全の必要性はこれを認めるに足りないというべきである。

四  よって、主文のとおり決定する。

(裁判官長野勝也)

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